遊び人だけが賢者に転職できる
一生、あそんでくらしたい。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。
この記事にめちゃめちゃ感銘を受けた。これを読んだことで大人になると何をやっても退屈に思えてしまう病 a.k.a 子供の頃はなんであんなに毎日楽しかったんだろう症候群の原因が分かった気がする。
仕事をしていると、いちいち感受性を削られる出来事ばかりだ。
生き残るために必要なのだという最終兵器を常にちらつかせられて、理不尽な要求を飲んだり、飲ませたりする。
とても生身の自分ではやっていけない。
だから僕は繊細に物事を感じ取る姿勢をさっさと放棄して、務めて鈍感になっていった。
しかしそれじゃあ、そのあとに世の中で「遊び」と言われるものを楽しんだって、何も得られるものはない。
わがまま&感受性が豊かという子供の特権・天性は大人になるにつれて“鈍感力”というものに形を変えていく。自分の考えを持つと疲れてしまうから、ただただ自分の心は鈍感に、社会のルールや空気を無条件に受け入れ、“普通・常識”という殻の中に安住し依存してしまう。そして鈍感になってしまったが故に傷つきもしないが楽しさも感じない、何をしても退屈で不感症になっていく。
遊びとは何か。
それは、本気でやることだ。
本気で傷ついたり、本気でうれしくなったり、本気で悔しくなったりする。
そういった感情をちゃんと自分のものとして感じ取り、味わい、心の引き出しに丁寧にしまうことだ。
「生き残るために必要なこと」なんかに負けずに、ちゃんと生きる喜びを感じる経験を積み上げていくことだ。
子供のときは何をするにも本気だった。本気で笑ったし、本気で泣いたし、本気で駄々をこねた。給食で余ったパンを取り合うためのジャンケンや友達との自転車全力疾走があんなに楽しかったのも本気でパンが欲しかったからだし本気で風が気持ちよかったから。敏感だったからこそ楽しさを感じられたし、楽しかったからこそ本気になって遊べた。
自分の感情に鈍感=本気で遊べない(遊び方が分からない)=退屈
自分の感情に敏感=本気で遊べる=楽しい
だから大人になって何をしても退屈に感じてしまうのは“大人になったから”なんじゃなくて、“自分に対して鈍感になったから”なんだと。
そして賢者を“本気で楽しむことができる大人”と解釈するのなら、遊び人だけが賢者に転職できるっていうドラクエのシステムも妙に腑に落ちたりしてしまうわけであります。
だから敏感になれ!本気で遊べ!って言ってすぐにできるほど単純なものでもないところがややこしいところではあるけど、こういう事を自覚することが出来ただけでも成長できた気がする今日この頃なのでした。